新光トンボ帽子の沿革と創業者

新光トンボ帽子株式会社の成り立ちと創業者についてご紹介したいと思います。

1:戦前

現会社は私の父が大阪で創業しました

父は関東に住んでおりましたが、
関東大震災で東京が焼け野原になった後、
食べていけないので、当時たまたま
叔父が経営していた帽子メーカー(斎藤商店)へ
丁稚奉公に入り、番頭を務めた後に独立しました。

当時の帽市産業は花形の商売だったそうです。
戦前の写真や、フイルムを見れば解るように、日常、皆帽子をかぶってました。

帽子の値段も高くて、1か月の給料程の物も有った様です。
一種のステータスシンボルとして、
ハンチング帽や、中折れ帽市が一番目立つウインドウに飾られていた時代です。

未だ和装屋や、下駄屋が一世を風靡していた時代でも有ります

軍需産業の需要が大きくて、戦闘帽も問屋から依頼を受けて作っていました。

 
兄弟2人で
弟は、(株)愛知商店マフラー製造業創業者、父は兄です
(父は●年に99歳で他界しました)

2:戦後

 

此の戦前時に、戦争で徴兵されるまで、シンガーミシンや裁断機を持っていたのが、
戦後直ぐ役に立って父は、物不足の昭和20年代に一財産を作りました

其れこそ前日に縫い上げた品物は凡池の問屋筋が、仕上がった帽子を取り合いして、
競ってリアカーで運んでくれた様で、配達代が浮いたようです

因みに宝物のシンガーミシンや裁断機は知人宅に隠していたと言ってました

終戦後荒廃した世の中で人出を集める為あっちこっちコネを頼りに人集めするのが、大変だった様です。

物を作れば飛ぶように売れた世の中でした

繊維産業が、花形の時代で、優秀な大学卒業生の就職先が、綿紡績、毛織物メーカーに集中してました

当社も親戚の帽子メーカーと組んで、アメリカにどんどん出荷していました

子供の時に、輸出用の木の梱包を作る手伝いをさせられた記憶が有ります

今の中国、東南アジアと同じ状況です

今だと信じられないが、深江橋に500坪の工場敷地を持って、寮、縫製工場、倉庫、輸出用の梱包場、ガレージ等、の設備を構えて帽子だけを作ってました

其れだけ帽子の需要が有ったようです

儲けも大きくて、父の自慢話ですが、大阪の新地や、京都の料亭など夕方に成れば、友達と連れ立って遊びに行っていたそうです

 

戦後続き

(お茶屋遊び)

勿論芸者さんが横に付いています

仕事は番頭に任せて晩は凡池の旦那衆と遊びと商談を兼ねて宴会してました

一流の場所で遊ぶのなら、先ず踊りが出来、謡(都都逸)を唄えなければ、

相手にされません

家に踊りの師匠と、謡の先生が週毎にやって来たのを覚えています

今の和風カラオケ教室、和風ダンス教室の様な物

私は生涯1回だけ、京都の有名な旅館で、芸者を呼んだ宴会に同席したことが有ります

(帽子屋の葬儀)

話は変わりますが妾さんの話

此の時代の帽子屋オーナーが無くなると、遺産相続で、大変な事に成ります

2号さんは居るのが普通、3号さんを持ってから故人の甲斐性が有ったと皆噂します

本妻の家族は、葬式の時に初めてお妾さんの家族との面談,、珍しくも無い話です

今年法律で子供は正嫡子で有る無いに拘わらず、平等の権利が確定されました

父は明治生まれで、もう同じ世代の旦那衆の仲間は既に他界して仕舞った為

こんな話は無くなりました

父の時代は、不景気は何回かは有った様ですが、景気は右上がりに上がっていました

 

 

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